高岡コロッケ物語

高岡コロッケ物語(8)

第1部・浪漫あり
ソースの唄(中) 薄れる個性、消える地元産

蔵の中に並ぶ醤油樽。ソースは醤油蔵を利用して製造されることが多かった=高岡市横田町2丁目の山元醸造
多彩なソースが所狭しと並ぶスーパーの店内=高岡市内

 コロッケにソースをかける食習慣は、食卓の洋風化が進んだ昭和三十年代以来、あまり変わっていない。しかし、洋風化とともに登場した地方のソース製造業は大きな変貌(へんぼう)を遂げた。スーパーには、多種多様なソースが所狭しと並ぶが、地元メーカーの製品はめったに見掛けなくなった。
 明治中期から全国各地で始まったソース造りは、昭和三十年代に一気に地方にも広がった。多くの製造業者が試行錯誤を重ね、さまざまなソースを世に送り出した。関東では甘み、関西では酸味の強いものが多く、地元色豊かな個性的なソースがコロッケの味を引き立てた。

●醤油蔵で製造
 醤油(しょうゆ)製造業者の副業の側面があるソースの製造は多くの場合、醤油蔵の一角を利用して行われた。山元醸造でソース造りに携わった要藤求さん(70)=高岡市波岡=は「くしゃみが止まらない人もいた」と打ち明ける。材料の唐辛子を煮詰める際に、強いにおいが蔵の中に充満し、鼻腔(びこう)をくすぐるからで、醤油とは異なる刺激臭が漂った。
 ソースには粘り気に応じてウスター、中濃、トンカツといった種類がある。要藤さんは「粘り気の少ないウスターが最も造りやすく、コロッケによく合う」と説明する。揚げ物の具にまでしみ込むウスターソースは、コロッケとの相性もよく、消費者に好まれた。
 大手業者が大量生産の技術を確立したのは、一九六〇(昭和三十五)年ごろとされる。このころから次第に大手業者のウスターソースが地方でも売り上げを伸ばし、逆に地方の製造業者の生産は下り坂となった。

●大手4社で63%
 日本ソース工業会によると、国内のウスターソース類製造業者は現在、推定で約百三十社。ほとんどが大都市周辺に集中しており、大手四社で総生産量の63%を占めている。
 地方で名をはせた製造業者も大手との価格競争には勝てず、お好み焼き専用のソースを開発するなど、用途を限定した商品で生き残りを模索した。山元醸造も、高岡御車山(みくるまやま)祭の露天商にお好み焼き用のソースを大量に販売した時期があったが、それも十数年前に途絶えた。
 同社の山本和代子さん(46)=高岡市横田町二丁目=は「ソースはずっと造っていたが、需要が減り続け、社内でも『そろそろやめよう』という声が上がっていた」と振り返る。そんな折、高岡市、高岡商工会議所などでつくる「高岡コロッケ実行委員会」が結成された。昨年六月のことである。再びソース造りの機運が盛り上がった。

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