高岡コロッケ物語

高岡コロッケ物語(6)

第1部・浪漫あり
昭和の味(下) 高度成長期、「共働き」助け

銅器工場で働く女性従業員。高岡でも高度成長期、女性の社会進出が進んだ=1964年、高岡市内
戦後の学校給食の様子。コロッケは人気の献立だった=高岡市内の小学校

 富山の女性は働き者といわれる。共働き家庭が多い理由でもあろう。高度成長期、女性の社会進出が進む中で、家事の負担を軽くするコロッケは食卓に欠かせないおかずとして重宝された。

●1世帯で年間47個
 総務省の最近十年間の家計調査をみると、富山県は二〇〇〇年と〇四年の二回、コロッケ消費量で全国一位を占め、それ以外の年でも上位を維持している。〇四年の調査によれば、一世帯当たりの消費量は金額にして二千三百四十六円。一個五十円で換算すると、一世帯が年間で四十七個を購入している勘定になる。
 高岡の食品スーパーの草分け的存在であるフレッシュ佐武社長の佐武峻三久さん(73)=同市昭和町二丁目=は「経済成長に伴って、コロッケや天ぷらといった手軽な総菜がよく売れるようになった」と回想する。
 フレッシュ佐武は一九五八(昭和三十三)年に青果店として開業し、六九年にスーパーマーケットに衣替えした。総菜を売り始めたのはスーパーになってからだが、佐武さんは「コロッケを買って行く女性には、勤め帰りの人も多かった。共働きの兼業主婦にとっては心強い味方だったのだろう」と振り返る。
 これも総務省の調査だが、富山県の二〇〇〇年の女性就業率は全国四位の51・5%に上り、全国平均を5ポイント余り上回っている。二十五歳から三十九歳の若手女性雇用者に占める正規雇用者の割合も、二〇〇二年の調査で全国トップの64%台となっている。
 高岡は四百年前の開町以来、ものづくりのまちとして長い歴史を刻んできた。一九五五年ごろ以降、銅器、漆器などの伝統産業に加えて、紙、パルプ、化学といった近代工業の大型工場が進出し、その後、アルミサッシの生産も始まった。
 東京オリンピックが開かれた六四年には、新産業都市にも指定された。まさに重化学工業を柱とする高度成長路線をひた走ったのが高岡であり、恒常的な人手不足の中で女性の就労が進み、おのずと共働き家庭も増えていった。

●市民の愛着獲得
 北陸三県に四十一店舗を展開するアルビス第一商品部惣菜課長の大沢淳子さん(47)は「石川県より富山県の方がコロッケの売れ行きはいい。コロッケに対する要望も多い」と指摘する。全店舗で一日に約二万個のコロッケが売れるが、一店当たりの販売個数は富山県の方が15%ほど多いという。
 スーパーマーケットも高度成長がもたらした新しい生活様式だった。高岡のコロッケ文化は、高度成長という時代を通り抜ける中で、一層の広がりと市民の愛着を獲得したと言えそうだ。

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