高岡コロッケ物語

高岡コロッケ物語(5)

第1部・浪漫あり
昭和の味(中) 給食の定番、あふれる笑顔

「ごちそうだった」と振り返る大川さん=高岡市福岡町荒屋敷
戦後の学校給食の様子。コロッケは人気の献立だった=高岡市内の小学校

 おおむね五十代以上の人なら、脱脂粉乳の味を覚えているだろう。学校給食は総じてあまりおいしいものではなかったが、中でコロッケは別格だった。キツネ色の温かなコロッケは、おなかをすかせた子どもたちから大いに歓迎された。
 富山県内では、戦後間もない一九四七(昭和二十二)年から、まず小学校で学校給食が始まった。県教委で学校給食を長年担当した管理栄養士の大川美智子さん(67)=高岡市福岡町荒屋敷=によれば、コロッケが献立に加えられるようになったのは、給食が始まってから十年余り後の六〇年ごろだったという。
 大川さんは「学校給食は栄養が第一。コロッケは栄養もあったが、同時においしさも兼ね備えており、子どもたちにとっては、ごちそうだった」と振り返る。

●重宝な献立
 当時の給食用コロッケは「ポッテ」と呼ばれる乾燥ジャガイモを材料に使っていた。これを水で溶いてつぶし、いためた豚のひき肉とタマネギを混ぜ込んだ後、小判型にまとめ、油で揚げる。乾燥ジャガイモは生のジャガイモより値段が安く、限られた材料費でやり繰りしていた学校側にとっても重宝な献立だったようだ。
 当時は、団塊の世代が小学校から中学校に進む時期にあたる。一学級が五十人以上、クラスの数も一学年六組、七組という学校がざらにあった。学校の厨房(ちゅうぼう)は今のように機械化が進んでおらず、コロッケ作りは手間も暇もかかる大仕事だった。
 大川さんは「ブリキで作った型にジャガイモのタネを押し込んで形を作った。とにかく時間のかかる献立だった。それでも、子どもたちが喜んでくれるので、早めの準備も苦にはならなかった」と当時を思い起こす。
 学校給食に登場したコロッケは初め、市町村ごと、あるいは学校ごとに作り方が異なっていた。豚肉の代わりにコンビーフを入れたり、野菜を加えたりといった具合だが、次第に業者の冷凍ものを使う学校が増え、規格の統一が求められるようになった。

●牛肉に一本化
 その結果、一九七八(昭和五十三)年には県学校給食会によって「富山県コロッケ」の名前で製法や材料が一律に定められた。経済成長を反映して、中に入れる肉が豚肉から牛肉に一本化されたのもこのときである。
 戦後、団塊の世代の登場で、まちには子どもたちがあふれていた。大川さんによれば、六〇年代に子どもたちの人気を集めた献立はクジラの竜田揚げとカレー、それにコロッケだったという。
 精肉店で販売され、家庭に浸透していったコロッケは学校給食の献立としても、ひときわ目立つ存在だった。

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