高岡コロッケ物語

高岡コロッケ物語(1)

第1部・浪漫あり
事始め(上) 懐かしのレンガ造り「宝亭」

西洋料理店「宝亭」の記憶を語る荒木トキさん。右は二男の清幹さん=高岡市片原町
「風玉堂」があったとみられる御馬出町の一角

 高岡市片原町の荒木トキさんは今年、百歳を迎える。実家も嫁ぎ先の寺も同じ片原町にあり、東京に出ていた戦前の十年ほどを除き、ずっと高岡の真ん中で暮らしてきた。

●よくはやっていた
 「レンガ造りの洋館だった。大きな建ちものではなかったけど、二階建てで、よくはやっていたね」。片原町と交差点を挟んで隣り合う片原横町にあった西洋料理店「宝亭」について尋ねると、そんな答えが返ってきた。
 トキさんは一九〇七年、年号でいうと明治四十年の生まれである。宝亭は物心ついたころには片原横町にあったというから、明治の終わりから大正の初めごろには開業していたようだ。
 高岡では、一九〇〇(明治三十三)年に御馬出町の「風玉堂」というパン屋の二階に西洋料理店が初めて開業したとの新聞記事が残っている。それによると、風玉堂を開業したのは梶川亮太郎という人物で、その後、場所を移して出店した本格的なレストランが宝亭だった。
 西洋料理店について長々と述べてきたのは、コロッケがナイフとフォークを使って食べる正式な西洋料理として日本に入ってきた歴史を持つからだ。一世紀を生きてきたトキさんにも、さすがに風玉堂の記憶はない。高岡のコロッケの発祥も、まさに歴史の領域に入ったということになろうか。
 高岡に登場したコロッケは、どのように受け入れられたのか。トキさんの実家を継いだ弟の吉沢鍵吉さん(92)が、記憶の糸を手繰り寄せる。

●出前取ったことも
 吉沢さんの家は鼻緒を商う商家で、大正時代の終わりごろにはゴム長靴で大もうけしたという。裕福な家庭に育った鍵吉さんは、しばしば親に連れられて宝亭で食事をしたことを覚えている。「コロッケとオムレツが好きだった。なかなかおいしかったね。出前を取って家で食べることもあったよ」と振り返る。  風玉堂の二階に西洋料理店が登場した一九〇〇年、高岡では文字通り時代を画す出来事があった。高岡大火である。三千五百八十九戸が焼失、五十三人が死傷したと記録に残る。誕生間もない風玉堂の西洋料理店も、もちろん焼けてしまった。
 風玉堂がどんな経過をたどって宝亭につながっていくのか、今は知るすべもない。しかし、高岡の町並みが一新されるきっかけとなった節目の年に高岡コロッケが登場した巡り合わせは、高岡とコロッケの不思議なつながりを暗示しているようでもある。

 コロッケを高岡の新名物に育て、まちづくりに役立てる取り組みが盛り上がりを見せている。第一部では高岡コロッケの歴史を訪ねる。

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